性同一性障がい、瑚心すくいの「私の小さな人生」

私、瑚心すくいが幼少から「性同一性障がい」と向き合ってきた事

異性愛者(ヘテロセクシュアリティー)

皆さん、LGBTってもうご存知ですよね。

L・・・レズビアン

G・・・ゲイ

B・・・バイセクシュアル

T・・・トランスジェンダートランスセクシュアル

と、ここまでは用語として使われていますが、実際には色々嗜好などに分けられて20個以上あるようなのですが、私自身は講演などであと2個追加しています。

Q・・・クエスチョン、そのものです。不明ということです。

I・・・IS(インターセクシュアル)と言われています。半陰陽といって男女両方の性器をもっていることなのです。1日に誕生する2000人に1人の割合でいらっしゃるということなのですが、また改めて後述します。

 

気になっているのは、A・・・アセクシャル(無性愛者)。私が講演で入れないのは存在していてもおかしくない、という観点でしか理解できていないからである。

 

そもそもセクシュアルマイノリティ性的少数者)という言語が必要になったのは特にLGTの方々への理解促進のためである。昨今のように多くの方々が認知されてきたのであれば、敢えて性的少数者を分ける必要があるのが疑問はある。

つまり、これら等に異性愛者を加えれば全員が何らかの性的嗜好を必ず持っているのは常識であるといえる。因みに異性愛者の事をヘテロセクシュアリティーと呼ばれているのだが、(ご本人たちは殆ど知らないだろう)

無論、まだまだ性的少数者への偏見や誤解があり、人権差別につながっていることから使われ続けているのであろう。

しかし身体的に問題があるのは性同一性障がいとインターセクシュアルだけである。私はここは別の意味で分けて考え、研究や議論を重ねる必要があると思う。

 

昔、テレビCMで「人類皆、兄弟」というコピーがあったが今思えば意味深いものである。恐らく殆どの異性愛者(つまり一般の人)はわざわざヘテロセクシュアリティーと呼ばれたくないだろう。

でも、その呼ばれたくない感覚を大事に考えて頂ければ性的少数者の気持ちも少しはわかるのではなかろうか。

性同一性障がい学会

日本GID学会というのがある。

いわゆる性同一性障がい(Gender Identity Disorder)。

私も学会員だが、何も偉くない。論文を発表したわけでもない。

 

ただ学会の論文を公開してくれるので学者や研究者が何を考え、

現代の何に着目すればいいのかわかる。

 

私も通院している病院の康純(こうじゅん)先生の論文を読んで色々質問が出来る。

先生は大学病院で小学生のトランスジェンダー(ここでは性同一性障がい)、

の治療もしている。

特に思春期の頃は「性」に対する意識が強くなる。

自分の成長に対する性、異性に感じる性等。

 

高学年で男性になりたいという子がいたとする。

治療は千差万別だが思春期では治療によって男性になりたいという意識が薄れていく。

逆もある。女性になりたいが薄れていく。

この治療は研究としてもとても奥深くGIDの本質を教えてくれた。

 

残念ながら私はこの時代に育ってないのでそんな治療は受けれない。

46歳の時に「諦めてください」と言われた。時代を恨んだものだった。

ところが医学は進歩するのだ。

57歳の今、「大丈夫、性別適合手術は十分可能です。」と。いわれる。

生きる気力が漲った。

諦めずにお金貯めようと思う。そうそう。

 

岡山大学ジェンダークリニックの医師でGID学会理事長の中塚幹也教授は

いう。「社会の仕組みがGIDがいないものとして作られている。支援を医療から生活へと広げる必要がある。」と。

身近な例でいうとトイレはMTF(心は女で体は男)。

銭湯なんかは勿論。

私も特にそうなんだがヒゲは恐怖である。

声は仕方ない。数日に何回か周りを混乱させる程度なので。

 

岡山大学のクリニックには資生堂やワコールの職員による下着の講習会。

言語療法士によるボイストトレーニングなど、

生活に密着した支援プログラムを行っている。

 

私は10年かけて女性ホルモン注射を打ち続けて胸がある事にやや満足してる。

しかしこれも保険適用できないからお金がかかるんですよ。

 

私の場合はLGBTというより男女の新しい生き方を考えていこうと思う。

だから自分が実験台でもあり、高齢化に伴い社会とどう向き合うかを

しっかり考えていきたい。

お祖父ちゃん

ザ・ギャンブラー

私の1歳から3歳は、父方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに面倒見てもらった。

お祖父ちゃんはと言えば、ギャンブラーである。

 

これが、また上手いことできちょる。

家におったら、私を転がして遊んでいるがすぐ飽きるので

しばらくしたら、福岡モーターボートレースへ私の手を引いてまあいい時間まで。

 

福岡市で勝てんとわかったら、長崎市の親戚ちへ遊びに行く。

何故か私は連れていかれる。

ちゃんとお祖母ちゃんもついて行くんですよ。

 

長崎県では、実は(現)諫早市は私の本籍です・・・。

良しなに。

 

お祖母ちゃんの「おはぎ」が絶品

長崎では、お祖母ちゃん特性の「おはぎ」が絶品、近所中が集まる。

私はと言えば、長崎の大村モーターボートレースへ同行させる。

 

甘いもので満足のお祖父ちゃんは、次の佐賀県唐津市の親戚を目指す。

というか唐津の海辺はきれいだ。しかし結局唐津モーターボートレース。

 

私の父も弟もギャンブルは嫌いではない。

しかし私は、そんな影響もあってか一切のギャンブルは大嫌いである。

 

当時は当たり前だが、お風呂の順番はお祖父ちゃんが一番。

連れまわされてへとへとの孫の私はお祖父ちゃんと入ったり、

 

同時に私が体験した初めての身内の死もお祖父ちゃんだった。

性同一性障がい、瑚心すくいの「私の小さな人生」

1961年2月22日、私は福岡県で生まれました。

親戚が長崎、佐賀にいたので、どこも故郷と思っています。

 

そんな私は博多区で男の子として生まれました。

でも心は女の子として生まれたのです。男の体であることが嫌だったのです。

 

幼いころから、女の子と遊んだり、ままごとするのが好きでした。

でも周りは男の子の友達が声をかけてくるので一緒に遊ばなければだめでした。

女の子の言葉も使えません。立っておしっこしなければなりません。

こんな不幸はありませんでした。

 

中学生になると、その思いは一層強く

女の子の服を着たい、化粧をしたいとなっていったのです。

 

その時は大阪の淀川の近くに住んでいたので、

よく川岸まで行って川の木々で両腕を引っ掻き血が滴り叫びながら泣いたり
雪山に行って自殺しようかと思ったこともありました。

本当に苦しかったんです。

 

しかしある日中学校のピアノを貸してもらう機会があって「どうしても弾きたい曲」があったのです。財津和夫(チューリップ)の「青春の影」でした。いい曲だったので練習しました。

それから自分の思いを曲にすることで少しばかり気を紛らわすことができたのです。

 

それで音楽大学へいって、その世界に入りました。

ただいくつになっても女の子への憧れは捨てきれません。

20台30台を過ぎ52歳の転職を機会に職場でカミングアウトすることに理解を得て

それからはずっと女性として生きています。

見た目はブサイクですが、ありのままの姿で生きることの素晴らしさをかみしめて

今は頑張っています。